4.大部屋でのどぎまぎ

どぎまぎしてるよ!

大部屋(4人部屋)に入っていたのはちょうど半月だ。その間に同室になったのは10人くらいだろうか。
早い人で2日、長い人で1週間ほどルームメイトだった。
入院したのも大部屋に入ったのも初めてだが、今までになかった多様なできごとがあった。今から考えればとても面白い経験だった。


大部屋で一番長く一緒にいたのは、わたしの母ほどの老婦人だったが、この老婦人は、

・看護師との会話の半分はう○こ関係
・漏れ聞こえてくるひとり言もう○こ関係
・大胆ないびき
・トイレに施錠をせず、ノックにも反応なしなのでびっくり遭遇する
の4点で、なかなか強烈な印象を残してくれた。

大部屋はベッドとベッドの間はカーテンしか仕切るものがないので、隣のベッドの患者と看護師のやりとりが聞こえてくるのもお互いさまで仕方のないことだ。
「今の薬とピルを併用して飲んでも大丈夫ですか?」
「ピルを飲んでるの? なんのために?」
「避妊のために」


あああ、隣でどういう顔をしていればいいのかわからない。いやどんな顔をしていようと誰も見ていないだろうけどさ。
うーむ、初対面でこの会話が成立するのは患者と医療従事者ならではですな。

自身の話に戻そう。
大部屋に入った初日、つまり手術の翌日からさっそく事件(?)は起こった。
大部屋初日の夕方、様子を再度見に来た姉夫婦もすでに帰っており(とろみ剤やらお茶やらテレビカードやらいろいろ買ってきてもらった、ありがとう!)わたしは点滴をしながらベッドに座ってぼんやりしていた。


本は大量に持ちこんでいたが(入院1日につき1冊計算で持ってきていた。それ以外にもスマホのKindleアプリにしこたま電子書籍データを落としていた)まだ読む元気はなかった。


ふと目の端に赤い色彩が映り、腕から伸びる点滴のチューブに目をやって、ぎょっとした。腕から30センチほどの位置まで、チューブの中に血が逆流していたのだ。
赤く染まったチューブを見て、どうしたらいいんだろうこれ、としばし悩んだ。


入院して数日経っていたが、わたしはまだナースコールボタンを押したことがなかった。
押さなくても看護師が検温やら血圧測定やらで頻繁に様子を見に来てくれるからだ。その日はICUから一般病棟へ移った日でもあったからか、より頻繁に誰かしらが様子を見に来てくれていた。


痛みがあるわけでもないしなあと、ナースコールをするのをためらってしまい、じき看護師が顔を出してくれるだろうし、そのときに話せばいいかと思ってしまった。


それから10分経ったか20分経ったかという頃。
隣のベッドの人がナースコールをしたらしく、病室に若い男性看護師が入ってきた。
ちょうどいい、隣人の用事が済んだら声をかけよう。


「どうしました?」と男性看護師が声をかけている。隣人の返事は聞こえなかったが「うお、なんじゃこりゃ」と看護師の焦った声が続いた。
わたしは電動ベッドの上半分をソファのように起こして座っていたのだが、直後、ベッドスペースを仕切るカーテンの頭がわ、座っていたわたしからは背後のカーテンになるのだが、それが前触れもなく、じゃっと音を立てて引き開けられた。


わたしは驚いて体ごと捻るようにして振り返った。ら、顔を強ばらせた男性看護師と目が合った。
えーと、なんじゃこりゃの原因はわたしですか?


……わたしでした。

体を起こしていたわたしからは死角になる枕元。点滴スタンドが置かれているすぐそばの床に血だまりができていた。
じ、事件が病室で起きている。

床に血だまりができているよ

事件が病室で起きている

どうやら点滴チューブの中を血が逆流し続け、どこかの地点で床に落ちていたらしい。
少しずつ血だまりは広がっていき、流れ、隣のスペースまで広がったところで、隣人が驚いてナースコールしたと、こういうことのようだった。

ああ、それからの騒動は、今思い出すだに申し訳ない。
入れ替わり立ち替わり何人もの看護師がやってきた。
わたしの体調を気遣ったり謝罪したり、点滴スタンドの調子を見たり、床の血だまりを掃除したりとひと騒動だった。
わたし自身は体調にはまったく問題なく、ひたすら騒動を起こしたことが申し訳なかった。


大人なんだから、様子がおかしかったら自分で判断してナースコールしろよ、ていうか、ナースコールってそのためのものだろうが。
最初に血が逆流していることに気づいたときにナースコールしておけば、こんなに騒ぎが大きくなることはなかったし、看護師たちに余計な手間をかけさせることもなかった。
隣人を驚かせることもなかった。


しまいには担当のK医師までやって来た。
うわわ、K先生にまで報告したのか。黙っておけばわからなかっただろうに、正直だな、看護師さんたち。
K医師に謝られた上に、あってはならないことでした、スタッフには注意しておきます、とまで言われてしまった。


やーめーてー、いたたまれないーー。
いえいえ、わたしがすぐナースコールしなかったから、注意なんてしないでください、とおたおたと医師に訴える。


この一件で学んだことがある。それはもう、深く、ふかーく学んだ。
病院で「ちょっと様子を見よう」をしてはいけない。
ナースコールすることをためらってはいけない。

その後のわたしが、気になることが起こったときはすぐさまナースコールをするようになったのはいうまでもない。

風呂場で尻もちをついた

次の事件(というかプチトラブル)が起きたのは3日後だ。
前日から、首から下のみだがシャワーの使用許可が下りていた。
髪を洗えないのは辛いが、それでもシャワーが使えるだけで嬉しい。


フロアにシャワーは1箇所のみで、空いている時間を見計らって使うことになる。
わたしはいそいそとタオルや着替えのパジャマを持ってシャワーを浴びに行った。


ちなみにシャワールームも脱衣スペースもとても広い。
最初に使ったときはその広さに驚いたが、ストレッチャーに横になった患者と数人の看護師が一度に使うことがあるのだからこの広さが必要になるのかと納得した。


汗を流してさっぱりし、体を拭いていたとき、濡れた足がすべった。
ふいにすべった足に、わたしの体は反応できなかった。
わたしは思いきり脱衣スペースの床に尻もちをついてしまった。

風呂場で思いきり尻もちをついた

……まっ裸で

はい、10時間の脳の手術を受けた4日後、風呂場で転んで尻もちをついたお間抜けはこのわたしです。
ずしん、と振動が体にかかり、さすがにひやりとした。


そっと頭を手で押さえる。手術以降、頭に巻きっぱなしのベルトの感触がした。
今の衝撃で脳が揺さぶられたりしただろうか? 脳に影響はあるだろうか?
これはマズい事態なんだろうか?


風呂場が滑りやすいなんてお約束だろうに、なんでもうちょっと気をつけていなかったんだ、わたし。
脱衣スペースに設置されている鏡に自分の顔が映っている。顔には『うかつ』『そこつ』と書かれている。ちなみにまだマッパのままだ。


めまいはない。吐き気もない。頭も痛くない。尻はちょっと痛い。
ほんの数日前に『病院で様子を見ようはやってはいけない』と心に誓ったわたしだが、ここで看護師に報告したら、心配された上に医師を呼ばれそうだ。


……どうしよう。


悩んだ末に、わたしはこの出来事を心の奥の小箱の中にそっとしまっておくことにした。
その後、幸いなことに体調にはなんの変化もなかった。黙っていたことが悪い結果につながったらどうしようと思っていたので、すごく安心した。

これは入院あるあるなのか?

入院あるあるなのか、少し不思議な出来事もあった。
入院数日経ってからの、ある日の夜中のことだ。


わたしは眠りが浅いので、ちょっとしたことでも目を覚ましてしまう。
(同室者のいびきが大胆だと、こういうときに厳しい)

後で時計を見たら夜中の3時くらいだったのだが、足元になにかを感じた。

寝ているわたしの足首を、なにかが触っている。触れているというには少々強めだし、掴んでいるというほど激しくもない。
はっきりとした人の手と指の感触に、わたしはぎょっとして目を覚ました。


慌てて半身を起こすと、足元のカーテンがわずかに揺れていた。
誰かが来ていた? そしてわたしの足首に触った?


気のせいかとも思ったが、それにしては人の指の感触がすごくリアルだった。それに、気のせいでカーテンが揺れることはないだろう。


えーと、そうだ、きっと看護師さんが異常がないかどうか見て回ってたんだよ。
なんで足首に触るのかはわからないけど。

夜勤の看護師さんって大変だね。こうやって一人ひとり様子を見ないといけないんだからね。なんで足首を触るのかわからないけど。

そこまで考えて、わたしはその日の昼間にあったことを思い出した。
ちょうど看護師が検温に来ていたときだ。


ひとりの老婦人が、わたしのベッドに近づいたのだ。ベッドに座っているわたしを覗きこんで不思議そうな顔をした。当然わたしの見知らぬ人だ。


老婦人はそこにいた看護師に「ここはわたしの部屋じゃないの? どうして知らない人(わたしのことか?)がベッドにいるの?」といったようなことを訴えていた。

看護師は老婦人に「○○さんの部屋はここじゃありませんよ」と言い、老婦人を連れて部屋を出て行った。
病室の作りはどこも同じだから、あの老婦人は自分の病室がどこかわからなくなったのだろう。


ベッドの位置が同じわたしのところへ来て、どうして知らない人がいるのかと不思議に思ったに違いない。
タイミングよく看護師さんがいる時でよかったなと思い、そのままそのことは忘れていた。


そうか、あの老婦人が夜中にトイレに行ったかなにかで、自分の部屋がまたわからなくなったのかもしれない。自分のベッドだと思って、間違えてわたしのところへ来てしまったのだろう。そうだ、きっとそういうことなんだ。なんだ、そういうことか。


なんで足首を触るのかわからないけど。


それ以上考えるのをやめて、わたしは布団を被った。

執刀医はスーパードクター

大部屋にはいろいろな病気の患者がいた。
わたしと同じ脳外科での治療を受けていた人もいたようだし、消化器官関係や泌尿器科関係の人もいたようだ。

当然患者ごとに担当の医師は異なる。

ある日の午後、談話室にお茶をもらいに行こうとベッドを下りたとき、向かいのベッドでは患者と医師が話をしていた。
向かいの患者はわたしと同じ脳外科の治療を受けている人だった。医師との会話でそれがわかる。


ということは、あの医師は脳外科の医師なのだろう。執刀医のH医師でも担当のK医師でもなかったので、名前はわからない。
向かいの患者との話を終えた医師から声をかけられた。
わたしが脳外科の患者だから気にかけてもらったらしい。


「調子はどうですか?」
30代と思われる若い男性医師だった。担当のK医師より少し下くらいだろうか。


おかげさまで順調に回復しています、ありがとうございます、と返事をする。
どうやらこの若い医師は、わたしの手術のときに手術室にいた医師のひとりだったらしい。
H医師が執刀医、担当のK医師が第1助手とするなら、この医師は第2助手というところだろうか。(医療ドラマの知識のみでの想像です)


そしてその若い医師は、わたしの手術の執刀医だったH医師をとてもリスペクトしているらしい。
医師のまなざしが、ひたとわたしに向けられる。
「あなたの手術は奇跡的なものでした」
あ、はい、そう聞いています。ありがたいことです。

「H先生に感謝しないといけませんよ」

談話室にお茶をもらいに行こうとしていたので、片手には空のマグカップを持ったままだったが、はい、とわたしは神妙にうなずいた。
若い医師の、H医師を語るまなざしの熱さにちょっと腰が引け、ごほごほっ。
この先生はとてもH先生が好きなんだなあ、と思った。


担当のK医師もとてもH医師を尊敬しているようだったし、他の医師やスタッフからもH医師の腕を褒める言葉を何度も聞いた。
気軽にH先生とか呼んですみません。今日からはスーパードクターHと呼ばせてください。

このときの若い医師とは、その後もう1度話をする機会があった。
手術から12日後、ようやく抜糸を終えてシャンプーの許可が下りたときだ。
それまでは髪を拭くウエットティッシュでなんとかしのいでいたが、髪を洗えないのは辛かった。
ようやく許可が下りたときは、やった、とガッツポーズをした。


手術後初のシャンプーは看護師に手伝ってもらったが、そのまま昇天するかと思うくらい気持ちよかった。
入院する前、仕事で疲れて帰ってきたときなど「あー、お風呂入って髪を洗わなきゃいけないけどメンドくさい」などと思ったこともあったが、とりあえずその頃の自分をハリセンしたい。

縫合跡はプロの業だった

シャワールームを出ると、わたしの様子を気にかけた看護師が声をかけてくれる。
久しぶりのシャンプーを堪能しすぎたのか、のぼせた顔になっていたのを心配されたようだ。


立ち話をしているときに声をかけてきたのが若い医師だった。
シャワールームのそばがナースステーション(スタッフステーション?)になっているのだが、パソコンの前で作業をしていたらしい医師は、わざわざ席を立ってわたしたちのほうまで歩み寄ってきた。


「水は溜まってないか?」
わたしは後頭部を開頭しているので、看護師が後頭部の髪をかき上げて確認する。
「大丈夫です、跡はきれいですよ」


看護師の返事に、一応見ておこう、と今度は若い医師がわたしの髪をかき上げた。
仕事熱心な先生だな、と思いつつ、わたしの想像力は違う方向へ走った。
この先生は、実はわたしの縫合跡を見たかっただけなのでは?


抜糸を済ませてようやくシャンプーの許可が下りたわけだが、それまではずっとガーゼで覆っていたので、縫合跡は見えなかった。
抜糸は担当のK医師が行った。

縫合跡は髪で隠れる場所なので、外からはわからない。
跡が見たければ、そばまで来て髪をかき上げるしかないのだ。


わたし自身も、自分の手術跡がどうなっているのかすごく気になった。
場所が後頭部なので、自分の目で見ることはできない。
ということで、スマホで写真を撮ってもらって見た。


抜糸は2回に分けて行ったので、1回目はちょうど見舞いに来ていた姉に、2回目は看護師に頼んで撮ってもらった。
その縫合跡だが、これが素人目で見ても見事なものだった。


左耳の上あたりから首のつけ根まで、ゆるやかな逆S字を描いているのだが、そのなめらかなカーブの美しさは、プロの業の一言に尽きた。


きっとこの若い医師も、H医師のプロの業を間近で見てみたかったに違いない。
どうぞ堪能してください、とわたしは後頭部を若い医師に向けた。
「うん、きれいな縫合跡だ」


若い医師は満足気にうなずいた。そうですよね、とわたしもうなずいた。

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