羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く

バツ目のにこちゃん
羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く

失敗に懲りて、必要以上に用心することのたとえ。熱い吸い物で口をやけどした者が、それに懲りて冷たいなますまでも吹いてさます意から ── 新明解故事ことわざ辞典

歯医者で診察中にわたしが持っているもの

歯のメンテナンスをするために、定期的に歯科医院に通っている。
診察中はハンカチを手の中に持っているが、ハンカチにはリップクリームを包んでいる。
診察中、うがいするごとにわたしは唇にリップクリームを塗り直す。
過去の痛い経験が、わたしをそうさせる。

あれはいまの歯科医院に通うようになる前、別の歯科医院に通っていた頃の話だ。
その歯科医院は自宅からはけっこう遠方だったので、通うのは大変だった。

片道1時間半か2時間はかかる。それでも頑張って通っていたのだが、ある日突然その歯科医院は閉院してしまった。
その頃はメインの治療を終えて、メンテナンスとして2ヶ月に1度くらいの割合で通っていた。2ヶ月前に入れていた予約日の予約時間にそれまでのように片道1時間半か2時間かけて歯科医院に行ったのだが、ビルの一室にある歯科医院が暗い。どう見ても診療中には見えない。
ドアの前に貼り紙がされている。貼り紙に書かれた『閉院しました』の文字を唖然として眺めた。

まあこのあたりの話はまた別の機会があればそのときにするとして、その頃通っていた、おしゃれなビルの中にあるおしゃれな歯科医院での話だ。
わたしは診察台の上に座っていて、そばには歯科衛生士のお姉さんが2人いた。
まださほどキャリアが長いとは思えないような、どちらも若い女性だ。

過去の痛い出来事

い、痛い……

その頃までは、わたしは手の中にはハンカチしか持っていなかった。
ふたりは器具を使いながらわたしの歯を診ていた。
と、突然ぢくりとした痛みと熱が唇の端に走った。

痛った、とわたしは思った。目を閉じているのでなにが起こったかわからない。
器具が口の中に入っているので声は出せなかったが、痛みに眉が寄った。

2人の歯科衛生士の焦りの気配が伝わってくる。しかしなにか説明があるわけでもない。
なにが起こったのか。この唇の痛みはなに?

個室の診察室に入っていたのだが、少しして、先輩らしい別の歯科衛生士の女性が入ってきた。
後輩の歯科衛生士が彼女を呼んできたらしい。なにやら説明している気配がある。
先輩衛生士はわたしの唇に触れ、ガーゼらしい布を当てている。

「すみません、沖端さん」
先輩衛生士の女性が言った。
「唇の端が切れて出血しています」

どうやら器具がこすれたかなにかで、唇の端が切れたらしい。
唇が乾きやすいほうなので、余計に切れやすかったのかもしれない。
先輩衛生士がガーゼを押さえたままにしているのはまだ血が止まっていないからか。

ひどく申し訳なさそうな声に、怒りが湧くことはなかった。
そうですか、とわたしは言った。
「本当にすみません」と先輩歯科衛生士が再度詫びを言う。
人に謝られるのは苦手だ。いえいえ、とわたしは答えた。

治療が終わった後で鏡を見たら、見事に唇の端が切れて腫れていた。

その日は土曜日だったが月曜日になっても腫れと赤みが引かず、会社で同僚に、唇どうしたの、と聞かれた。
この傷が治るまでにけっこう日数がかかった。
なんせ唇の端なので、傷がふさがったかな、と思っていると、食事するときなどに口を開けたはずみで傷が開く。
ぴりりとした痛みが地味に辛い。

そして現在

痛みの経験がわたしをそうさせるのだ

わたしが歯科医院での診察中にハンカチと一緒にリップクリームを持つようになったのはそれからだ。
うがいが終わるごとにマメにリップクリームを塗るようになった。
歯科衛生士や先生にちょっと変な顔をされることもあるが、流血に怯えるよりいい。

ときどきリップクリームを塗っているときに椅子ががくんと倒されて、うお、となったりする。
危なかった。これ、口紅だったら口裂け女みたいな唇になってたよ。
診察終わりのうがいでも塗ってしまうので、その日の治療の説明をしようとした先生が、リップクリームを塗っているわたしを見て 、え、という顔になったりする。

治療中に患者の唇を切るなんて、めったにないアクシデントだとわかってはいるんです。余計な心配だと思ってもいるんです。
でもリップクリームを塗らずにはいられないんです。

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