
あの頃の電話事情
これはまだ携帯電話が影も形もなかった頃の話。
え、そんな時代があったのかって? ふぉふぉふぉ、今のお若いかたはご存じないかもしれませんがのう、そんな頃があったんですじゃよ。
それまでは自分の部屋には、家の固定電話の子機を置いていた。
だがしかし、子機を使って長電話をしていると、なぜかいつも母が勘づく。そして早く終わらせろと電話の邪魔をしにくる。
心置きなく友人と電話で話したいと思ったわたしは、一念発起で自室に自分専用の電話を引くことにした。当時固定電話を引くにはそれなりの費用がかかったので、我ながら思い切ったと思う。
さて無事に部屋に電話を引いて、自分専用の電話機と電話番号を手に入れたわたしは浮かれていた。
自分で選んで買った電話機は、丸いフォルムの緑のパステルカラーのものだった。楕円形に文字盤(数字盤?)が配置されていて、電話がかかってくると文字盤をくるくると光が回転する。
わたしの浮かれ具合は最高潮だ。どれくらい浮かれていたかといえば、自分で録音した留守電のメッセージが『はい、アサヒです。ごめんなさい、ただいま留守にしています。ご用のかたはメッセージと投げキスをどうぞ』だったくらいだ。
うお、記憶の底に押しこめていた黒歴史を掘り起こしてしまったよ。昔語りって恐ろしいな。
自分の番号を知っているのは親しい友人とごく近い身内だけだと思っていればこそできることだ。
ちなみにノリのいい上の姉は『もしもーし、オネーサマです、ちゅっ』とメッセージを残してくれた。
そんなある日のことだ。仕事から帰ってきたわたしは、電話機の留守録のランプが点灯していることに気がついた。
誰からだろう、とボタンを押した。録音が再生される小さい音の後に聞こえてきたのは。
ふっと鼻で笑うような音。そして、
『バーカ』
知らない若い男性の声だった。
間違い電話とか営業電話がかかってくる可能性をまったく考えていなかったことにそのとき気づいた。
図星なだけに言い返せない屈辱に拳を振るわせ、わたしはその日、留守電のメッセージを入れ替えた。
間違い電話がかかってくる

間違うのはしかたないけどさ
またある日のこと、部屋の電話が鳴った。
誰だろうと思って(ディスプレイはなかった)受話器を取ったら、聞き覚えのない年配の婦人の声が聞こえてきた。
『○○ちゃん? おばあちゃんよ』
ああ間違い電話か、とわたしは思った。
番号をお間違いのようですよ、とわたしが言うと、あら、と言って電話は切れた。
人生の先輩に言うのもナンだが、間違えたんなら謝りましょうよ。
数日後、同じ女性からまた電話がかかってきた。
『○○ちゃん?』
いいえ、沖端といいます。番号をお間違えですよ。
『あら、○○ちゃんじゃないのね』
電話は切れた。
だからね、間違い電話をかけたんなら以下略。
数日後、またまた同じ女性から電話がかかってきた。
受話器を取って「もしもし」と言うと、
『またあなたなの。どうして○○ちゃんじゃないの』
どうして○○ちゃんじゃないかは、あなたが○○ちゃんの家にかけずにわたしの部屋にかけているからですよ。
婦人の後ろから、婦人の家族らしい女性の声が聞こえてくる。
『どうしたの?』
『○○ちゃんにかけてるのに、何回も知らない人が出るのよ』
『えっ、それ、間違ってかけてるんじゃないの』
ええそうですね、間違ってかかってきてますね。
電話の向こうの会話は更に続く。
『お母さん、早く切って』
電話は切れた。くどいようだが、間違い電話を以下略。
それ以来同じ人からはかかってこなかった。ほっとした。
営業電話もかかってくる

この手の電話もかかってくるのね
営業電話がかかってきたこともある。
やたら元気のいいお兄さんだった。
元気のいいお兄さんの説明によると、わたしにえらくラッキーなことが起こって、海外旅行を今だけ特別に安く行ける権利が当たったらしい。
幸か不幸かこの手の電話をわたしは取り慣れていた。会社にも似たような電話がかかってくるしね、まったく。
お兄さんのテンションは高い。
『どうですか、今ならこんなにお安く海外に行くことができるんですよ! 行きたい国とかありませんか!』
わたしはちょっと考えた。
「行きたい国ですか」
『そうです! ありますよね!』
考えて、答えた。
「イスカンダル」
お兄さんは一瞬沈黙し『ヤマトが発進するまで無理ですね』と言って切った。
あれ以来かかってこないところを見ると、まだヤマトは発進していないのだろう。
部屋に電話があるのもちょっと面倒だよね。