どたばたしてるよ!
MRI検査を受けてからおよそ1ヶ月後、姉夫婦同席での説明を聞く。
なぜそんなに日にちが空いたのかと思われるかもしれないが、説明を聞く脳外科医(後の執刀医でもある)が腕の良さに比例して忙しい医師で、最短の日付で予約を取ってもこうなってしまった。
執刀医となるその男性医師は50代ほどの年齢だろうが、そのわりにはえらく若々しく見える医師だった。(やはり茶髪だったのが理由のひとつだろうか)
後に他の医師から聞いたのだが、相当に腕のいい医師で、あちこちに呼ばれたり、外部から医師の手術を見学に来る医療関係者がいたり、県外から医師の手術を受けに患者が訪れたりするらしい。
職場の近くで、いつも健康診断を受けている病院だからなじみがあるという理由だけで選んだ病院に、たまたまそんなに腕のいい脳外科の医師がいて執刀してもらえるとは。
わたしって運がいい、と思った。
ベテラン脳外科医(後で知ったが、脳外科の部長だった)の説明は、以前若い医師から聞いた話をより詳しくしたものだった。
ベテラン脳外科医の名前をH医師という。
H医師から、図解入りで説明を受ける。
いわく、わたしの『脳内のできもの』は、今までH医師が見たことがあるかどうかわからないくらい大きいものであること。
神経にややこしい絡みかたをしているらしいこと。
大きな、難しい手術になるだろうこと。
後遺症の出る可能性は高いこと。
深く息を吸ってH医師に聞いてみた。
「……悪性の可能性は」
少し声が震えた。
H医師は穏やかな声のまま「病理検査をしなければ断言できないけど、おそらくは良性でしょう」と言った。
深く吸った息をそのまま吐き出すと、隣に座っていた姉の手が、そっと背中に当てられた。
一番気になっていた顔のけいれんだが、
脳内の動脈と顔面神経が、腫瘍が原因で接触していることが理由と思われること。
実際に頭を開けてみないとわからないこと。
もしけいれんの原因が腫瘍じゃなければ、動脈と顔面神経が接触しないように処置することなどの話を聞いた。
H医師の話は素人のわたしにもわかりやすく、納得のできるものだった。
H医師が、わたしが余計な衝撃を受けないように言葉を選んで話をしていることがわかった。話を聞くうちに、わたしは目の前の医師に自分の病気を任せる気持ちになっていた。
わたしはその場で、手術をお願いします、と言った。
その日のうちに入院と手術の日程が決まった。
最短で手術の日にちを押さえてもらったが、なにせH医師は忙しい。
決まった手術の日程は1ヶ月後だった。
手術まで日にちが空くのが気になったが、1ヶ月後でも腫瘍の大きさにはほとんど影響はないと聞いて安心した。
その日、帰宅してから母に病状を説明した。母を驚かせないように、意識して穏やかに「頭の中にできものがあるんだって」と切り出した。
そうか、やっぱり聞く相手に衝撃を与えまいとすると『腫瘍』ではなく『できもの』という言いかたになるんだな、と思った。
話をしている間、予想したよりも母が落ち着いているように見えて安心した。
久しぶりに母の手を握った。
会社に病気を報告して長期の休みを取るためには診断書が必要になる。
発行してもらった診断書には『脳腫瘍、左側顔面けいれん』と書かれていた。
文言は続いて『入院、加療のため1ヶ月ていどの日数を要す。ただし症状においてはその限りではない』とある。
会社へは、とりあえず1ヶ月の休職申請をすることにした。
幸いといってはなんだが、ちょうど受け持ちの仕事の内容が大きく変わろうというときで、それまで担当していた仕事を後輩に引き継いでいたところだ。
今なら長期で休むのに一番支障がない。
ラッキーだったなあ、と思った。タイミングがよかった。
じたばたどたばたした闘病生活だったが、わたしはこの後も何度も「ラッキー」「タイミングがいい」「運がいい」と思うことになる。
神様は、その人が耐えられる試練しか与えないというのは本当かもしれない。
神様はその人が耐えられる試練しか与えないというのは本当だろうか
わたしはこの後何度も「ラッキー」「タイミングがいい」「運がいい」と思うことになる
個室か大部屋か、それが問題だ
話を入院に戻すが、入院するに際して、わたしにはひとつ希望したいことがあった。
個室に入ることだ。
自慢じゃないがメンタルが貧弱で、やたらと気疲れするタチだ。
病室は4人部屋だと聞いていたが、見知らぬ人と4人部屋で過ごすことは自分の豆腐メンタルでは気が休まるまいと考えていた。
まあ多少お金がかかることになっても、ほら、メンタルの健康って大事だしね。
これは必要経費ってやつだよね。
なので、入院の手続きをするときにスタッフに聞いてみた。
「個室って入れますか?」
個室ですか、とスタッフのお姉さんは言った。
「部屋が空いていたら入れますが、個室代はこうなっています」
示された入院案内書類の該当箇所には、個室の差額ベッド代が書かれていた。
う、と言葉に詰まる。
部屋代だけで、これ?
1日でこの金額ということは、半月入院したらいったいいくらに?
そしてその金額はわたしの家賃の何ヶ月分?
「……大部屋でお願いします」
メンタルの健康は、差額ベッド代に負けた。
入院するに際して、記入する書類の多いことに驚いた。
現在かかっている病院、病気、服用している薬、食物アレルギーの有無。
などを問われるのはわかるとして、
『あなたはどんな性格ですか?』
これはなぜだろう。『短気』とか『神経質』とか『他人のささいな失敗も許せない』とかだったら要注意患者になるのだろうか。
幸いなことにどれにもあてはまらないけれど。
しかし、うーむ、わたしの性格か。
『控えめ』『平和主義』『小心者』『ヘタれ』『ウケ狙いに走る』『ラノベ好き』『BLは好物』
なにか違う気がする。後になるにしたがってどんどんずれている気もする。褒め言葉ではないようにも思える。
しばし悩んだあげく『温厚』と書いた。我ながら妥当なところを書いた。
『あなたはどんな性格ですか?』
……えーと、とりあえず『温厚』で
次の項目はと見ると『友人からどんな性格といわれますか』
さらに記入のハードルが上がった気がする。
人畜無害、と友人から言われたことを思い出す。いやしかし、ここに書くには少し違うような。それにこれもけして褒め言葉ではあるまい。
新入社員から『お母さんみたい』と言われたことを思い出す。
うーむ、それも違うような気がする。そうだ、『お母さんみたい』と新入社員の後輩女子に言われたときは『あなたのお母さんより年上だと思うよ』と思ったのだった。
口にしなかった自分を褒めてやりたい。いかん、思考がずれていく。
結局『穏やか』と書いた。『温厚』となにが違うのかと突っこんではいけない。
わたしは温厚で穏やかな、そう、まるで春風のような性格なのだ。そういうことにしておこう。
入院するまで、つまりは休職するまでの1ヶ月間を、会社では仕事を調整しながら過ごした。
1ヶ月という比較的長期の休職を前提にしているのだからあたりまえなのだろうが、日々する仕事がなくなっていく。
半端な仕事を引き受けます、と御用聞きのようなことをやりつつ、わたしの仕事を引き継ぐことになった後輩の調子を見たり励ましたりをしつつ、残り日数をカウントしていった。
入院を目の前にして、わたしにはもうひとつ気がかりなことがあった。
尾籠な話で恐縮だが、月経のことだ。
ここ数年、不順に拍車がかかっていたが、今回の病気がストレスになったのか、さらに不順になった。
いつ月経が始まるのかがまったく予測がつかない。
ただでさえ大部屋で落ち着かないだろうに入院期間と被ったら嫌だな、と悩んでいたのだが、入院の少し前に始まり、入院する直前に終わった。
これ以上はないほどのタイミングのよさに、わたしは胸を撫で下ろした。
どたばたしつつ過ごしているうちに、入院する日がやってきた。
入院したのは月曜日だ。後で知ったのだが、どうやら入院や退院は月曜日が多いらしい。
ということで、いよいよ入院だ。
話は少し前後するが、ここで、わたしが入院前後に考えたこと、したことについて触れようと思う。
その後の注射とハリ治療は
注射とハリ治療、顔のけいれんについて。
K病院で入院と手術が決まった後、注射やハリ治療に通うのは止めていた。
ボトックス注射は1回きり、ハリも5、6回通って終わった。
入院するまで日が空いていたので、K病院からはけいれんを抑える薬を処方されていたが、薬にあまり効果がないことは知っていた。
案の定というか、薬の効果を実感することはなかっと思う。薬を飲んでいるということで、安心材料にはなった。
わたしの場合は腫瘍がけいれんの原因と思われるので、残念だが注射もハリも効果はあまりなかった。
軽いときは左の上下まぶたがけいれんして半目になる。大きいときは、まぶたから頬、口元と顔の左側全体がけいれんする。左目はまったく開かない。
外を歩くときは常にうつむくか、顔を隠していた。電車に乗るときは車内に背を向けて、扉から外を見ているふりをしていた。
表情を動かすのにつれてけいれんが始まることも多い。
人と話をするときは顔を押さえ、食事をするときは左目が開かなかった。
歯ブラシを口の中に入れるのに苦労したし、口紅はうまく塗ることができなかった。
大きいけいれんが起きたときに鏡に映して見たことがある。
顔の左側全体がびくびくと波打っている。左の口元は斜め上にひきつっている。左目は開いていない。
けいれんする左側を見つめる自分の右目は、あきらめたように静かだ。
そしてその表情は、――なんだろう、とても、ひょっとこに似ていた。
ひょっとこ――火吹男と書くらしい――の面には、いろいろなバリエーションがあるようだ。
左右の目の大きさが違う顔の面が、この場合はあてはまる。
薄目になっている左目、普通に開いている右目。左上に大きくひきつる唇。
ためしにちょっと唇を突き出してみたら、それは見事なひょっとこ顔になった。
もしやひょっとこの面のモデルは、顔面けいれんの患者なのか。
確認するすべはないが、民話と医学のつながりを見つけてしまった気分になった。
鏡に映る自分の顔は……、これは、もしやひょっとこ?
入院する前に美容院へ行こう
入院前に髪を切ろう。
入院前に済ませておこうと思い、行きつけの美容院へ行った。
その頃のわたしのヘアスタイルは、胸元近くまであるセミロングだった。
頭を手術すると聞いて、この髪をどうしたらいいのだろうと悩んだのだ。
ショート、あるいはベリーショートにしたほうがいいのだろうか。今までしたことがないスタイルだ。
診察時にH医師に聞いてみると、意外にも「切る必要はない」と言われた。
手術のときに切開するのは、左側の後頭部のあたりらしい。
ならばむしろ、あるていど髪の長さはあったほうがいいのか。
かっぱ頭になるのをひそかに恐れていたので、かなり安心した。
とはいえ手術後は何日もシャンプーできないことを考えると、少し短くしておいたほうがいいだろうと思い、美容院に予約を入れた。
行きつけの美容院はもう10年以上通っているところだ。
A美容院の(個人的に思う)特色は、なんといってもオーナー美容師がびっくりするくらいのイケメンだということだろう。
10年以上前、美容院ジプシーをしていた頃、知人の紹介で初めてA美容院を訪ねた時は、オーナー美容師はまだ20代の若さだった。
なぜこんな地方都市(はっきりいって田舎だ)の美容院に、ジャ○ーズにいても遜色ないような王子様系イケメン美容師がいるのだろうと驚いた。
なぜここにいるのかは、わたしの地元でもあるこの地方都市がイケメンオーナー美容師の地元でもあるからだが、これほどのイケメンがいつの間にか地元に誕生していたことに本当に驚いた。
イケメンオーナー美容師の話はまだまだつきないが(10代のころの修業時代の話とか、当時のやたら意地悪な先輩美容師の話とか、当時のやたら親切な経営者の話とか)それを書き始めるとどんどん話があらぬ方向にずれていきそうなので、残念だけれど別の機会に回すとしよう。
こんなに短くするのは珍しいですね、と微笑むオーナーにあいまいに笑い返しながら、肩にかからないくらいの長さに髪を切ってもらった。
ニョ・モーレ
ニョ・モーレ。
病気がわかるしばらく前から、ひそかに、しかしわりと深刻に悩んでいたことがあった。
それは、あれだ。
ミ・ア・モーレ。
いや違う。
ニョ・モーレ。
――そう、尿漏れだ。
尾籠な話ふたたびで恐縮だが、その頃、尿意をがまんするということが難しくなっていた。
できることはできるのだが、時に自分の意思とは関係なく漏れたりする。
これはもしや年齢による現象のひとつか、と衝撃を受けつつもあきらめかけていた。
きっと世間には似たようなことで悩んでいる大人女子も少なくないに違いない。だってその手のCMをけっこう目にするし、と自分をなぐさめてもいた。
『我慢している状態』になるのが恐くて、頻繁にトイレへ行くようになった。
もしトイレが近くになかったらと思うと、外出するのもためらうようになった。
手術後ふと気づいたら、あれほど悩んでいたニョ・モーレが起きなくなっていた。
術後数年経っても、以前のようなニョ・モーレに悩まされることはない。
腫瘍を摘出したことと因果関係があるのかと不思議に思ったものだ。
とても気になるのだが、確かめるすべがない。
やはり勇気を出してH医師に聞いてみるべきだったか。
先生、脳腫瘍とニョ・モーレは関係があったんでしょうか!
そして、友人Tへ
そして、友人Tへ。
脳腫瘍と病院で告げられた。おそらくは良性だろうと。
今回、顔のけいれんを機に発見されたが、腫瘍は少しずつ何年もかけて大きくなっていったものだろうと。
ひとりの友人の顔が浮かんだ。友人の名前をTという。
Tとわたしは同い年で、Tと知り合ったのは、まだわたしもTもほんの小娘の頃だ。
いろいろと欠点の多い子ではあったが(まあお互いさまだ)Tにはそれを補ってあまりある魅力があった。
Tの周囲には、Tに惹かれて、Tの作り出す作品や世界に惹かれて何人もの人が集まっていた。わたしもその中のひとりだ。
その頃からずいぶんと長い時間が過ぎたが、そのとき知り合ったメンバーの何人かとは今でもつきあいが続いている。きっとこの先も続いていくだろう。
わたしはTに、怒りながら、呆れながらも憧れていた。
Tが芝居に関わっていたから、わたしも芝居を見るようになった。
Tは脚本も演出も役者もなんでもやったけれど、わたしはもっぱら見るほうだ。時にはTが手がける舞台の裏方もやった。
Tが小説を書いていたから、わたしも小説を書くようになった。
Tには「お花畑のような小説」と言われたけれども。
Tは若いうちに地元を離れて上京したので、地元に住んでいるわたしと会うのはせいぜい1、2年に1度。連絡はもっぱら電話かメールだ。
それでもTやTと一緒に上京した友人に会いに何度も東京へ行ったし、Tたちが地元に帰ってくれば地元メンバーと一緒に飲み会を開いた。
Tの病気を知ったのは、何年前になるだろう。
最後に声を聞いたのは電話越しだ。
顔を見て話したのがいつかは考えても思い出せない。電話越しにTから入院したことを聞いたときは驚いたが、Tの声は元気に聞こえた。
きっと回復すると信じて疑わなかった。
Tが母親に伴われて地元へ戻ってきたと聞いたのはしばらく後。
最後に見たのは、ICUのベッドに横たわるTの姿だ。
本来なら身内しか入れないICUに、Tのお母さんのはからいで、友人たちと一緒に入れてもらった。
薄く開かれたTの目に、わたしたちが映っているかはわからなかった。
友人たちの呼びかける声が、Tに届いているかはわからなかった。
わたしはTの名前を呼ぼうとして、声が詰まって呼ぶことができなかった。
その頃、仕事でもプライベートでも、いろいろなことが雪崩のように身の回りに降り注いでいた。それは、いいこともそうではないことも両方だったけれども、雪崩に押しつぶされて、わたしはどんどんメンタルの調子を崩していっていた。
眠るのも起きるのも苦行のようになっていた頃、Tの旅立ちは、まるでとどめを刺されたようだった。
その頃、わたしは何度も何度もTに呼びかけていた。
夜、眠れないまま布団に横になり、暗闇に手を伸ばした。
「T、迎えに来てよ。Tもひとりだったらつまらんやろう。一緒に行くから、ついて行くから、迎えに来てよ」
当然だけれど、伸ばした手が見えないなにかに掴まれることはなく、Tがわたしを迎えに来ることもなかった。
毎日を生きていくのがただ苦しく、親に看取られ、愛猫に置いていかれることなく旅立ったTのことを羨ましいとすら思った。
その後、周囲の助けを山のように借りて、何年も時間をかけて、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、わたしは少しずつ復調していった。
生活を楽しむことができるようになっていった。
病院で脳腫瘍の宣告を受けたとき、Tと同じような病気になったな、と思った。
わたしの腫瘍はかなり大きいと言われた。ここまで大きくなるのに何年もかかっただろうと。
それなら最初の腫瘍の種ができたのは、迎えに来て、とわたしがTに願った頃だろうか。
ほら見ろ、と聞こえた声は、とてもTに似ていた。
羨ましいなんていってさ、病気が見つかるのは恐いだろう、と。
わたしは全面降伏するしかない。その通りだよ、とんでもないことを考えました。
わたしが悪かったよ。本当にごめんなさい。
でもさ、T、ちょっと時間をかけすぎじゃないかな。いったいあれから何年経ったよ。
ていうか、婆ちゃんになるまでもう迎えに来なくていいから。
わたしの大好きな、はじけるようなTの笑い声が聞こえた気がした。
後になってわかったことがある。
わたしの脳内で見つかった腫瘍は、わたしが胎児の頃には、すでに『腫瘍の種』ができていたらしい。
『腫瘍の種』は元をただせば皮膚片だという。
わたしという胎児が母親の胎内で形作られている途中、頭蓋骨が作られ、閉じていく過程で、なにかのはずみで皮膚片が頭蓋骨の中に閉じこめられたそうだ。
ものが皮膚片なだけに、それは破壊と再生を繰り返す。
体の表面の皮膚片なら剥がれて落ちるだけだけれど、頭蓋骨の中に閉じこめられた皮膚片はどこにも出ることができずに、破壊と再生を繰り返して少しずつ、少しずつ大きくなっていったと。
つまり数年どころか、わたしの年齢分の時間をかけて、今の大きさに成長したことになる。
『腫瘍の種』ができた時期に関して、わたしは盛大な勘違いをしていたようだ。
Tはわたしの勘違いに呆れているだろうか。それとも、またお花畑みたいなことを考えていると笑うだろうか。
まあいいだろう。後頭部に残る傷跡に触れるたびに、わたしはTのことを思い出すから。
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