
思いも寄らないことや、あり得ないことが実現すること。また、冗談半分で言ったことが事実になってしまうこと。瓢箪の小さな口から馬が飛び出すという意から── 新明解故事ことわざ辞典
わたしは人の顔を覚えない
わたしはなかなか人の顔を覚えない。2、3度会って話したくらいではまず無理だ。
よしこの人の顔は覚えた、と思っても、1ヶ月も会わないとすっかり忘れる。
俳優や芸能人の区別もあまりつかない。
友人のネギと一緒に映画を見に行ったときに「この俳優さん、○○っていう作品にも出てるよね」と言われたりするが、作品が違うとヘアスタイルや雰囲気が異なるので別人としか思えない。
外国人だとこの傾向がさらに顕著になり、同じ作品の中でも、衣装や髪型が変わると同じ人かどうかがわからなくなる。
スパイ映画なんかで、キャストが何人も変装したりするともうダメだ。誰が誰やら状態になる。
国内のアイドルでも、グループに何十人もいると、全員同じ顔に見える。微妙に髪型が違う同じ顔の集団だ。
相貌失認という症状があるらしい。失顔症ともいうらしいが、わたしはこれではないかと疑ったことがある。今でもちょっとそう思う。
学校を出てしばらくアルバイト生活をしていた。飲食店だったが、よほど常連にならないと顔の見分けがつかなかった。
夕方にひとりの女性が来店して「今日は2回も来ちゃったわ」と言われたことがあるが、1回目に来たのがいつなのかがさっぱりわからなかった。そんなに忙しい日でもなかったのに。2回目のご来店ありがとうございます、と笑顔で答えたが、顔がひきつってなかったらいいけど。
人の顔を覚えないと仕事で困る

この方は一体どちら様?
これが会社に入って非常に困った。担当していた仕事の性質上、訪問客の対応をすることが多かった。
最初の1回こそ名刺をもらえたりもするが、取引先の社員だとすでになじみがあるので、ほぼ顔パス状態で、会社名を名乗ってもらえたらいいほうだ。
マメに名乗ってくれる人もいるが、「○○会社の○○です」と2度3度聞いても、会社名と顔と個人名が一致しない。ようやく一致したと思っても次回の訪問時には忘れている。
何度も顔を合わせているうちに先方がわたしの顔を覚えて「沖端さん、こんにちは、○○さんと約束してるんだけど」などと言われたりする。
そんなときは、背中を嫌な汗が流れる。
顔はわかる、たしかにわかる。以前も会ったことがある。だがしかし会社名が出てこない。
「すみません、会社名をお伺いしてもよろしいでしょうか」と口に出すときの、あの気まずい空気は今思い出しても胃が痛くなる。
わたしなりに努力はした。名刺を受け取ったら裏に本人の特徴を書く。年齢とか、メガネの有無とか、髪型とか、体型とか。
スーツの衿に会社のバッジをつけている人もいるので、会社名と会社のロゴの一覧表を作ったりもした。
フォローが思わぬ方向に

笑顔が磨かれたよ
しかし、顔を覚えないというマイナス点をフォローするにはこれだけでは厳しい。
もっとフォローができる方法はないものか。それを模索していくうちに、わたしの接客スキルは上がっていった。はっきりいうと、やたら愛想が良くなった。
とりあえず笑っておけと思ったわけではけして(ええけして)ないが、訪問客の応対時に笑顔を絶やさないわたしは、そうなった原因を考えると少々心苦しいが、やたらと評判が良くなっていった。
取引先に褒められるようになり、社員に褒められるようになり、お偉方にも褒められる。
自分のマイナス部分を補うためのスキルアップだっただけに、なんというかこう、面映ゆいというか、申し訳ないというか、素直に受け止めるのがちょっとしょっぱいというか。
誰だっけ、名前が出てこないよ、と思いながら浮かべる笑顔には少しばかりの苦みが混じっている。
そんなある日、直属ではない部署の上司から声をかけられた。
「今度○○会社を接待するんだけどね」
はい、とわたしは答える。お店の予約でも頼まれるのだろうか。
「先方さんが、沖端くんを連れてきてっていうんだよ。いつも気持ちのいい応対をしてもらうからって。だからお寿司を食べに行こう」
ひ、ひええ。○○会社って、どんな方がいらしてましたっけ!?
わたしの記憶力では会社名を聞いてもすぐにはお顔が出てこないんですけど!
回らないお寿司に初めて行きました。