
それは愛チャリの異変で始まった
住んでいる集合住宅から駅までは歩いて行ける距離なので、というか、駅まで歩いて行ける前提で住む部屋を選んだので、自転車を使うのは週末くらいだ。
主な用途は買い物で、後は実家に行ったり近所へ出かけたりとまあそんな感じだ。
集合住宅には駐輪場がある。自転車を使うのが週末くらいなので、駐輪場へ行くのも週末くらい。
ちなみに駐輪場(というか駐輪スペース)のすぐそばには住民用の駐車場と集合住宅の裏口がある。
その日は週末で、わたしはスーパーへ買い物に行こうと一週間ぶりに愛チャリに近づいた。
そして気がついた。
愛チャリの前カゴになにかが入っている。
なにかじゃないわ。ゴミだわ。中にゴミを入れたビニール袋だわ。

誰だわたしの愛チャリにゴミを入れたのは
前にも似たようなことがあった。駐輪スペースは駐車場から裏口に入るコース上にあるので、おそらくは自分の部屋にゴミを持ちこみたくない輩が目についた自転車のカゴにゴミをポイ捨てしていくのだ。
まったく、レベルが低いことだ。
いやいや誤解がないように一応言っておこう。
わたしはキミ(誰?)の人間としてのレベルが低いと言っているわけではない。他人の自転車のカゴに自分が作り出したゴミを放置して恥じないというその行動のレベルが低いと言っているのだよ。
いやいや、酔っていたというのは理由にはなるまい。
だったらどんなことなら理由になるかって?
そうだねえ、たとえば。
たとえばこんな物語なら
車から降りて歩き出したとたんに、彼の喉元になにかが突きつけられた。
車の外にフードを目深にかぶった男が潜んでいたことに彼はそのときになって気がついた。
駐車場の照明を浴びて、喉元のそれは硬質な輝きを見せる。
「な、なんだ、おまえは」
誰何したつもりだが、声は情けなく震えた。
無理はないだろう。30年以上生きているが、ナイフを突きつけられるのは初めての経験だ。できるなら一生経験したくなかった。
血が引いていくのがわかる。体が小刻みに震え出す。
「おまえさあ、なに持ってんだよ」
無理に潰したような声がフードの男から漏れる。思ったよりも若い男なのかもしれない、と彼は思った。
「な、なにって、これは金目のものなんかじゃない。昼にコンビニで買った昼飯のゴミだ。か、金が欲しいのか。金なら」
「金なんかいらねえよ。オレが欲しいのはスリルだよ」
ス、スリル、と聞き返した言葉は声にならなかった。
呻くような声が喉から出ただけだ。
突きつけられたナイフはぎらぎらと光っている。
頼む、命だけは助けてくれ。僕には愛する妻と生まれたばかりの子どもがいるんだ。
情けないと笑われてもみっともないと唾を吐かれてもいい。助かるためなら土下座くらいいくらでもする。そんなことで僕のプライドはみじんもゆるがない。だいたいプライドで赤ん坊のおむつを買うことはできない。
卵や牛乳だって買えない。もちろん肉も買えない。
「な、なにがしたいんだ。僕はなにをすればいい」
掠れた声がようやく出た。
フードの男が、ひっひと笑う。
「話が早いじゃんか。だったら、そうだなあ、あの赤い自転車の前カゴに、その手に持ってるビニール袋を入れてもらおうか」
「なんだと。こ、これはただのゴミ袋だぞ」
「だからなんだよ。オレはスリルが欲しいんだって言っただろうが」
「だからって他人の自転車のカゴにゴミを入れるなんて、そんな非常識なこと、うっ、やめろ、頼むからナイフを近づけないでくれ」
「おもしれえなあ。さあどうすんだよ。いつまでも常識をお大事にすんのか? それともオレにスリルを提供すんのかよ。さあ、どうすんだ」
「う、うう……」
彼は無念さに呻き、目の前の赤い自転車の前カゴに手にしたビニール袋を入れる。
誰のものともしれない自転車のカゴに、かさりと小さな音を立ててビニール袋は収まった。それは彼の罪の姿をしていた。
フードの男がひきつった笑い声を上げた。
「そおだよおお、やりゃあできるんじゃねえか。楽しいだろーう。他人のモノを汚すのはよおお」
すまない、許してくれ。僕には妻と子どもがいる。愛する2人を残してこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。ああ、いま僕は自身の誇りを地に落とした。いや、たとえ誇りが埃にまみれようと僕は生き抜いてみせよう。僕の埃にまみれた誇りよりも愛する妻と子どものために生きていくのだ!
そしてわたしは自分をなだめる

そんな事情ならしかたないね
まあ、そんな事情ならしかたなかろう。
わたしも妻から夫を、子どもから父親を奪うことはしたくないしな。
わたしは赤い自転車のカゴからビニール袋を取り出してゴミ箱に入れた。
親子の幸せを守った満足感があった。
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