
買い物に出かけた先で

わ、忘れた……!
まだ街中がマスクをしている人だらけの頃の話だ。
ある日の夕方、わたしは自宅近くのドラッグストアに買い物に来ていた。
洗剤、リップクリーム、あと入浴剤も買っておこうかな、と頭の中で買いたいものをリストアップしていく。
リップクリームのコーナーの前で、どれにしようかと悩む。特にこれと決めている商品はないので、そのときの気分で買う物を変えているのだ。
高保湿のリップクリームか、これはいいかもしれない。わたしは唇が乾きやすいしな、となにげなく唇に手をやって驚いた。
指先が直に唇に触れる。
そのときになって、わたしはマスクをせずに店内に入っていたことに気づいた。
え、マスクをしていない?
今日は外出をしていて、一度家へ戻った。家の中でまでマスクをする趣味はないので部屋に入るとすぐマスクを外した。外したマスクはドレッサーの上に置いた。覚えている。
そうだ、その後買い物に行こうと思って買い物用の財布を出してバッグに入れて、自転車のカギを持って、寒いけどマフラーしたほうがいいかな、面倒くさいからこのままでいいかと部屋の外に出た。
駐輪場に置いた愛チャリに跨がって風が冷たいと首をすくめながら数分こいでドラッグストアに到着した。「いらっしゃいませ」と店員さんの挨拶に出迎えられて入り口からほど近いリップクリームのコーナーでどれにしようか悩んでいる。 ← いまここ
マスクをするのを忘れた!

どど、どうしよう……
あああ、ドレッサーの上に置いたまま、マスクをするのを忘れていたよ!
しまった、やってしまった。このご時世にマスクなしで店内に入るなんて、店員さんや他のお客さんに苦情を言われても文句は言えないよ。
マスクを取りに戻ろうか、と考えた。だがしかし、そのためにはまた自転車を数分こいで集合住宅に戻って、さらに部屋まで行ってマスクを取ってこないといけない。
面倒くさい、と、つい本音が漏れる。
せめてハンカチを持っていれば口元を押さえるものを、買い物に出る前にハンカチは洗濯物を入れるカゴの中に放りこんでしまった。
どうしようと悩んだ結果、わたしは超特急で買い物を済ませることにした。
夕方遅い時間だったので、来店客が少ないのは幸いだった。
わたしはせめてものフォローのつもりで袖口で口元を覆い、その日入り用のものだけ買うべく早足で店内を回った。
今日買わなくてもいいものは後回しだ。
どうせマスクをするからとメイクを顔の上半分しかしていないのが地味にダメージだ。
2、3の商品をカゴに入れると、そのまま早足でレジへと向かう。
レジにはお兄さんがいた。
お兄さんになにか言われたわけでもないが、レジ台にカゴを置きながら「すみません、マスクを忘れてしまって」と言うと、お兄さんが、え、なに? という顔になる。
あ、買い物に関係のない話でしたかね、すみません。
ヘタれなもので、突っこまれる前に詫びないと落ち着かないんです。
お兄さんはわたしを咎めるでもなく、ごく普通に会計を済ませる。
わたしは買い物用の布バッグに買ったものをぽいぽいと入れて、またまた早足で店を出た。
自分だけが違う、という不安
店の外に出ると、ちょっと落ち着いた。早く集合住宅へ戻ろう。
自転車をこぎながら考えた。
少し前までは(この年になると1、2年前も少しだ)マスクなしで家を出るのが当たり前だった。
なのに今は、マスクをしていないと気づいた途端に、恥ずかしいやら落ち着かないやらいたたまれないやらで精神状態が大変だ。
誤解のないようにいっておきたいが、わたしはマスクをしなければいけないのが面倒だといっているわけではない。
自分のためにも周囲のためにもマスクは必須だろう。もちろんそれ以外の対処もだ。
周囲が当然のようにマスクをしている中に『マスクをしていない自分』がいることの、この息苦しくなるほどの不安はどうだろう。
話は変わるが、以前なにかの記事で読んだものだが。
外国で開かれたとある格式のあるパーティに、ある日本人夫妻が招かれたという。
(大使夫妻だったか商社マンの夫妻だったか、忘れてしまった。出典を詳しく覚えていなくて申し訳ない)
夫人はドレスコードに則って、ロングドレスを身に着けていたという。
ただ、夫人は長手袋を着用するのを忘れてしまった。
パーティ会場にいる他の女性は皆ドレスに長手袋を合わせている。
その会場で長手袋をしていない女性は夫人だけだった。
パーティが終わる頃には夫人は精神状態をおかしくしてしまい、パーティ会場から出て中庭を笑いながら歩き回っていたという。
その記事を読んだときには、そりゃ恥ずかしいだろうが、手袋をしていないというだけでそこまで追いつめられるものだろうかとも思ったものだが。
『自分だけが違う』という状況の、なんと辛いことか。
今にも糾弾されるのではないかと、周りの視線がとても気になった。
マスクなしで外出して困っている人に差し出せるように個包装のマスクを持ち歩こうとひそかに心に決めつつ、冷たい風に吹かれながら自転車をこいだ。