書庫で棚が倒れかかってくること

虎のだるま落とし

うっかりには自信がある

自慢にはならないがうっかりには自信がある。
どのくらい自信があるかと問われるならば、八兵衛(by 水戸黄門)と肩を並べるくらいだと胸を張ってお答えしよう。
仕事中のうっかりミスには枚挙にいとまがない。
会社にさほど(さほどかよ)損害を与えていないのがせめてもの救いだろう。
つくづく医療関係の仕事に就かなくてよかった。
もし選んだ職業が、なれるかどうかはともかくとして、医者や看護師だったら、うっかりで人死にが出てしまう。

保育士関係も危険だ。赤ん坊や幼児を抱えたままコケるとかデフォルトでやってしまいそうだ。
身内や友人の子供を抱っこする機会がときどきあるが、そんなときは持てる集中力を限界まで高めている。

会社に入ってからこっち、いったい何個の湯飲みをダメにしただろうか。
湯飲みとコーヒーカップとグラスと、いままでに割った数をトータルするといったいいくつになるだろう?
3桁にはなっていないと思いたい。
買い換えたばかりの急須をその日のうちに割ってしまったことは記憶のひだにしっかりと刻まれている。
またすぐに急須を買い直すハメになってしまったわけだが、上司に印鑑をもらうために差し出した領収書は重かった。

というくらいうっかりなので、仕事中のうっかりミスは枚挙にいとまがない(大事なことなので2回書きました)

それはある日の仕事中のこと

その日わたしは書庫に籠もって仕事をしていた。
書庫は建物の端にあり、狭くて暗い。なにしろ窓がない。
書庫というだけに書類が置いてあるだけなので当然エアコンもない。
夏は暑いし冬は寒い。籠もって仕事をするには向かない場所だ。
真冬のその日は書庫の中は比喩ではなく凍えるほど寒かった。
1時間ほどいたが、その日の午後には寒気が収まらず、慌てて葛根湯を飲んだ。
それはともかく、書庫の中で、わたしはある棚を前に黙々と仕事をしていた。
不運なことは、棚が幅40センチほどの細身のもので、そのわりには奥行きがあったことだろう。
1段の棚に引き出しが縦に3つ並んでいていて、それがさらに縦に2段重なっている。 
縦に2段重なった棚は、わたしの身長よりも高かった。
それぞれの引き出しにはぎっしりと書類が詰めこまれており、わたしはその引き出しのあっちを開け、こっちを開けしていた。
後になって思う。
棚には不備はなかった。
わたしは横着せずに引き出しをひとつずつ開けていけばよかったのだ。
最初はそうしていた。引き出しをひとつ開けては閉め、また別の引き出しを開けては閉める。
そのときにしていた仕事の内容上、何度も同じ引き出しを開けては閉めを繰り返していた。
3つ目の引き出しを開けて閉め、5つ目の引き出しを開けて閉め、2つ目の引き出しを開けて閉め、また3つ目の引き出しに戻るといった具合だ。
仕事の進めかたに問題があるだろうというつっこみはこの際だからスルーするとして、そういうことを繰り返しているうちに面倒になってきた。
早くこの仕事を終わらせて書庫から出たいのだ。なにしろここは寒い。タイツを穿いた足の裏に貼っている靴下用カイロ(つまさきサイズ)が唯一のぬくもりだ。

わたしは横着することにした。
どうせまた同じ引き出しを開けるのだから、開けっ放しにしておけばいいではないかと思ったのだ。
そしてわたしは幅のわりには奥行きのある重い引き出しを2つ3つと開けていき、開けたままにしてまた別の引き出しを開ける。
少し考えればどうなるかわかりそうなものだ。寒さで脳みそが凍りついていたとみえる。

書棚がゆっくりと滑り落ちてくる!

不幸中の幸いは、そのときに手元の資料ではなく、棚に顔を向けていたことだろうか。
もし手元の資料に視線を落としていたら、棚がのしかかってくるまで気づかなかったかもしれない。
あとで、もしそうなっていたらと想像して背筋を震わせた。危なかった。うっかり会社の書庫で地縛霊になるところだった。

いくつめかの引き出しを開け、中の書類を探していたときにそれは起きた。
2段重なった棚のうち、上の段の棚がゆっくりとずれてきたのだ。
棚が、引き出された引き出しの重さに耐えきれずにバランスを崩し、わたしに向かってずり落ちてくる。

我が目を疑った。
不動だと(根拠もなく)信じていた棚が、ゆっくりと倒れかかってくる。
妙に非現実的で悲鳴を上げることもできなかった。

棚が、書棚が……!

倒れてくる棚を前にしてわたしが思ったのは『元の位置に押し戻さなければ』だった。
隣の部屋では同僚および上司が仕事をしている。
ここで騒ぎを起こして、彼ら、彼女らの仕事の妨げになるわけにはいかない。
いや正直にいおう。ただでさえ自他ともに認めるうっかりなのに、この上うっかりの黒歴史を増やすわけにはいかない。
勤続年数だけならベテランなのに「棚落としちゃった、てへぺろ」などというわけにはいかないのだ。
棚を落とすわけにはいかない。というか騒ぎにしたくない。というかそんな騒ぎを起こしたと知られたくない。

ずれて倒れてくる棚をわたしは必死に押さえた。
ここで明言しよう。書類が詰まった棚は重い。(あたりまえだ)
ずれてくる棚を全力で押し戻そうとしても動かない。
わずかに動いても元の位置ではなく横にずれていく。
引き出された引き出しの重さで倒れてくるのだ、とようやく思い至る。
棚を戻すまえに引き出しを戻さなければ。
だがしかし、引き出しを戻そうにも両腕は必死に棚を押さえている。
引き出しに割く3本目の腕はない。
なんとか片腕を放して引き出しを戻そうとしたら、棚を押さえていたバランスが崩れて棚がさらに斜めにずれていく。

無理矢理放した片腕では引き出しを元に戻すことができない。

うっかりの黒歴史がまたひとつ

わたしは心の底から念じた。
発動しろ、わたしの火事場の馬鹿力、と。

発動しやしねえ。

どうわたしの力が影響したかはライブで見ていてもよくわからなかったが、幸か不幸か棚はわたしのほうではなく横に倒れていった。両腕にかかっていた圧倒的な重さがふっと軽くなったときには、棚は、横手に設置されていた、これまたファイルがぎっしりと詰まった大きなキャビネットに倒れかかり、キャビネットの棚に支えられる格好で斜めになって止まった。
ガラスの扉を見事に破壊して。

ガラス扉が破壊される高らかにして儚げな音があたりに響き渡った。

ああ、やってしまった。やっちまったよオイラ。
うっかり黒歴史にキャビネット破壊が加わっちまったよ。

しばしその場に呆然とたたずんでいたが、3拍ほどして書庫の扉が開かれた。
「どうした!」と飛びこんできたのは上司だ。その後からぞくぞくと同僚の姿が続く。
 
くそ忙しいときに同僚たちの手を何人分もわずらわせ、キャビネットに倒れこんだ棚を元に戻してもらい、割れたガラスを拾ってもらい、掃除機で細かい破片を取り除いてもらい、ガラスが割れた棚のファイルを全部取り出してもらい(奥に破片が入りこんだかもしれないため、棚のファイルを全部出した)、2段に置かれていた棚がずれないように固定してもらい、……これ以上は涙でパソコン画面が滲んでキーが打てません。

誰もわたしを責めなかった。ケガはないかと心配もされた。
慰められることがなじられるよりも辛いと実感した。
せめて罵ってええぇぇ。

せめて罵ってえぇ

すべてが片づいた最後に、上司がにっこりと棚にテプラで作った文字シールを貼った。

『注意して引き出しましょう』
赤いテプラシールが目に沁みた。

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