
ある日の帰宅時にそれはあった
ある日の夜のことだった。その日は外出していて(ひっきーなわたしにしては珍しい)家に戻ったのは夜の8時になろうとしている頃だった。
集合住宅の我が部屋へ近づいたわたしは、おや、と思った。
扉の前に張り紙が貼り付けられている。
手のひらサイズの紙だが、細々と文字が書かれているのが見えた。両端はガムテープで留められている。
あいにく眼鏡をかけていないので、そばまで寄ってもなにを書いてあるのかよくわからない。
ひょっとしてクレームだろうか、とわたしはびびった。
この部屋に住んで10年以上になるが、自慢ではないがわたしは今までクレームを受けたことはない。
夜中に洗濯機や掃除機は使わないし、騒音だって立てていない、はずだ。
夜中にスマホで動画を見ていることはままあるが、あの音が隣室にまで響くほど大きいとは思えない。
わたしは慌ててバッグから眼鏡を取り出した。

扉にメモ!
扉の伝言
○○号室の住人の方へ、から文面は始まっていた。
文面の内容は要約するとこんなものだった。
自分は隣室の住人であること。
風で洗濯物が隣室(わたしの部屋だ)に飛び込んでしまったこと。
何度かインターホンを鳴らしたが、お留守のようであること。
申し訳ないが、戻られたら、隣室の○○号室まで洗濯物を持ってきてはもらえないだろうか。
○○号室の住人より
で、文面終わりだ。
依頼ごとの文面にしては名前の記載もなかったが、まあこのご時世だし、やむなしというところだろう。
向こうも隣人がもしも変人だったら嫌だろうしね。わたしは決して変人ではないけれどね。
文字からして隣人は男性のようだ。クレームではなかったのはなによりだが、さぞやお困りのことでしょう。
わたしはメモをはがして部屋へ入り、さっそくベランダを確認した。
狭いベランダの中に、なるほど黒いTシャツが落ちている。ハンガーにかかったままだ。
部屋と部屋の間はそれなりの高さの仕切り板があるのだが、あれを飛び越えて隣のベランダに入ってしまったとは、いきのいいTシャツだ。
これが若いお嬢さんだったりしたなら、もしかしたらわたしに声をかけるために洗濯物をわざと放り込んだりなんかしていたりして。どうしましょう、ラブストーリーは突然に?
まさかストーカーだったりしないでしょうね。なぞという可能性も考えたかもしれないが、あいにくわたしは若いお嬢さんではないので、あっさりとハンガーつき黒Tシャツを取り上げて、埃をぱんぱんと払った。
すまんねえ、ベランダが汚れているから、せったくの洗濯物がまた汚れてしまったかもしれないよ。
隣室のインターホンを鳴らすと、一人の男性が現れた。
お宅訪問

期待を外したらすまん
30代頭ほどか。単身住まいであろうことと、Tシャツ(模様入り)の好みからいっておそらくこのくらいの年代の人ではなかろうかという予想通りではある。
わたしは男性ににこやかに笑いかけた。おばちゃんは初対面の人にでも笑顔で話しかけることができるのだ。
ましてや相手は隣人さんだ。愛想よくしていて損はあるまい。
「こんばんは。すみません、今帰ってきたものですから。これですよね」
男性はわたしが差し出したハンガーつき黒Tシャツを、なぜかちょっと慌てた風に受け取った。
なぜだろう。隣人の(わたしのことだが)あまりの愛想よさに驚いたのか、それとも若いお嬢さんではなかったことへのがっかりを押し隠したらそうなってしまったのか。
男性はあわあわとお礼を口にした。わたしはいえいえとお礼の言葉を受け止める。
そしてふと思いつく。ああ、もしかしてこの男性は、
「やあ僕のTシャツが一足先にあなたに会いに行ってしまったみたいですね」
のような、ラブストーリーは突然に的なものを期待していたのだろうか。
そうだとしたら、現れたのがただの愛想のいいおばちゃんじゃあそりゃがっかりするよねえ。すまんこってすねえ。
そしてなんということはなしに隣人とのやりとりは終わった。
自分の部屋へ戻ってから気がついた。
ああそうだ、隣人さんは夜中の音がちょっとうるさい時があるんだよね。いやいつもじゃないし、短い時間ではあるんだけど。
言ったほうがよかったかな。いややはり言わないほうがよかったよね。
隣人とのつきあいのバランスって難しいね。
〈PR〉こういうのだと風に強そうだね
